「女優」まで消し去るのか! 言葉狩りという弾圧から自由を守るための狼煙を上げよう【宝泉薫】
他には、女子アナや女流作家というのもこれに近い存在。だからこそ、女子アナは良くも悪くも注目されるし、女流作家が紙幣の顔や大河ドラマの主人公になったりもするのだろう。
女優と俳優と言い換える風潮は、そんな特別感のある文化を台無しにする暴挙なのだ。
実際、何もそこまでという事例も増えてきた。たとえば、3月13日に配信された「工藤夕貴『俳優ではなく歌手になりたかった』有名人の娘であることを隠して12歳でデビュー 味わった挫折と葛藤の日々」(CHANTO WEB)というネットニュース。本文ではいきなり「今や日本を代表する国際派女優としてその名を知られる」と紹介されているし、彼女自身もデビュー当時について、
「歌手になりたかったけど、CMやドラマに出たり、役者の色が濃くなっていき、いつのまにかお芝居が中心になっていきました。(略)女優さんと控室が一緒だったりすると子役は控室に入れてもらえない、なんて時もありました」
と、語ったりしている。つまり、本人が自分を「俳優」と呼んでいないにもかかわらず、タイトル内が「俳優ではなく歌手になりたかった」という表現になっているのは、担当者が時流に配慮したのだろうか。しかし、そのせいで本人による生きた言葉という印象が薄れてしまい、逆効果だ。
そもそも、無理して「俳優」に統一しなくても、その人その人に合わせるやり方でよいはずだ。ちなみに、前出の秋元才加の場合、日比の混血で、米国文化への憧れを持ち、マッチョ志向でもある。ドラマでは巴御前や熊の生まれ変わりのような女といった、男まさりな役を得意にしてきた。女優のなかでも少数派のタイプであり、そのあたりが「私は女優って肩書きが正直しっくり来なくて」という感覚につながっているのだろう。
つまり、そういう人はそれとして、逆にというか、まだおそらく多数派だと思われる「女優」という肩書きがしっくり来ているという人まで俳優と呼ぶ必要はないわけだ。と、俳優呼びがどうにもしっくり来ない筆者としては言わざるをえない。たとえ自分が最後のひとりになっても、女優のことは女優と呼ぶつもりである。
文:宝泉薫(作家・芸能評論家)